二十センチ 【第3夜】

三日目の朝だった。

「おはようございます」

彼女はいつもの声で言った。

「おはよう」

それだけ。

私は鞄を置き、上着を脱いだ。

「三日目ですね」

手が止まった。

「覚えてたの?」

「何をですか」

彼女はパソコンから目を上げない。

「飲んでないんですよね?」

「飲んでない」

「じゃあ三日目」

少し間を置いて、彼女がこちらを見た。

「意外と、えらいですね」

その「えらい」が、昨日耳元で囁かれた声と重なった。

耳にかかった吐息まで思い出す。

朝から思い出すことではない。

私は仕事を始めた。

午後九時。

また二人になった。

彼女はコピー機の前に立っていた。

白いブラウス。

今日は髪を下ろしている。

紙を取ろうとして腕を伸ばすたび、ブラウスの背中に小さな皺ができる。

私は何となく見ていた。

「見てますよね」

振り返らずに彼女が言った。

「見てない」

「昨日も同じこと言いました」

彼女が振り返る。

「どこ見てたんですか」

「言わない」

「どうして?」

「言ったら怒るだろ」

彼女は少しだけ目を細めた。

それから、ゆっくりこちらへ歩いてきた。

私の机の前で止まった。

「帰らないんですか」

私が聞いた。

「帰ってほしいですか?」

「それ、前にも聞いたな」

「まだ答えてもらってません」

私は彼女を見上げた。

白いブラウスの一番上のボタンが開いていた。

昼間も同じだったはずなのに、二人だけになると違って見える。

視線を上げる。

彼女と目が合った。

見ていたことに気づかれた気がした。

それでも彼女は襟元を直さなかった。

「帰ってほしくない」

私は言った。

彼女の表情が変わった。

ほんの少しだけ。

「そういうこと、言うんですね」

「聞いたのは君だろ」

「そうですけど」

彼女が机に手をついた。

顔が近づいてくる。

私は動かなかった。

髪が私の頬を撫でた。

くすぐったい。

その奥から、いつもの香りがした。

シャンプーなのか。

香水なのか。

もう、どうでもよかった。

彼女の匂いとして覚え始めていた。

「三日目」

彼女が囁いた。

「うん」

「えらい」

唇が耳のすぐそばにある。

吐息が耳から首筋へ流れる。

身体が勝手に緊張した。

彼女は離れない。

私も離れなかった。

彼女の肩と私の肩が触れた。

ブラウス越しの体温が伝わる。

ほんのわずかな接触だった。

けれど昨日までとは違った。

私は顔を少し動かした。

彼女も動いた。

そのせいで、互いの顔がさらに近くなった。

唇まで、数センチ。

彼女の呼吸がわかる。

私が息をすると、彼女の香りが入ってくる。

彼女が息をすると、その温かさが私の口元に触れる。

誰も動かなかった。

視線だけが、一度、彼女の目から唇へ落ちた。

彼女も気づいた。

「どこ見てるんですか」

囁くような声だった。

「見ちゃ駄目?」

彼女は答えなかった。

代わりに、私のネクタイに指をかけた。

結び目をほんの少し直す。

指先がシャツの襟に触れる。

そして一瞬だけ、首筋に触れた。

冷たい指だった。

私は息を止めた。

「緊張してます?」

「してない」

「嘘」

昨日とは逆だった。

彼女が笑う。

顔が近いままなので、その笑いが唇の動きまで見える。

「毎日これをやるつもり?」

「何をですか」

「褒めるの」

「嫌ですか?」

「嫌だったら三日も酒をやめてない」

彼女が少し笑った。

「それ、断酒の理由として間違ってますよ」

「自分でもそう思う」

彼女の指がネクタイから離れた。

私はその手を目で追った。

触れたいと思った。

昨日なら、そこで終わっていた。

今夜は違った。

机の上に置かれた彼女の手のすぐ横に、自分の手を置いた。

小指と小指の間。

一センチもない。

彼女は手を引かなかった。

私はほんの少しだけ指を動かした。

小指の側面が触れた。

彼女も動かない。

たったそれだけだった。

手を握ったわけでもない。

抱き寄せたわけでもない。

それなのに、耳元で囁かれたときより緊張した。

しばらくして、彼女の小指が動いた。

私の指に、ほんの少し重なった。

偶然ではなかった。

私は彼女を見た。

彼女も私を見ていた。

「明日は?」

彼女が言った。

「飲まない」

「どうして?」

答えようとしたとき、彼女が手を離した。

身体も離れる。

香りが遠ざかる。

急に寒くなったように感じた。

彼女は鞄を持った。

「じゃあ、また明日」

「明日も褒めてくれる?」

彼女はエレベーターの前で振り返った。

「四日目まで我慢できたら」

「酒を?」

彼女は少しだけ笑った。

答えなかった。

扉が閉まる。

私は自分の小指を見た。

そこには何も残っていない。

それでも、彼女の指の温度だけは残っていた。

酒を我慢する夜は、三日目だった。

彼女を我慢する夜は、

たぶん、今夜からだった。