三日目の朝だった。
「おはようございます」
彼女はいつもの声で言った。
「おはよう」
それだけ。
私は鞄を置き、上着を脱いだ。
「三日目ですね」
手が止まった。
「覚えてたの?」
「何をですか」
彼女はパソコンから目を上げない。
「飲んでないんですよね?」
「飲んでない」
「じゃあ三日目」
少し間を置いて、彼女がこちらを見た。
「意外と、えらいですね」
その「えらい」が、昨日耳元で囁かれた声と重なった。
耳にかかった吐息まで思い出す。
朝から思い出すことではない。
私は仕事を始めた。
*
午後九時。
また二人になった。
彼女はコピー機の前に立っていた。
白いブラウス。
今日は髪を下ろしている。
紙を取ろうとして腕を伸ばすたび、ブラウスの背中に小さな皺ができる。
私は何となく見ていた。
「見てますよね」
振り返らずに彼女が言った。
「見てない」
「昨日も同じこと言いました」
彼女が振り返る。
「どこ見てたんですか」
「言わない」
「どうして?」
「言ったら怒るだろ」
彼女は少しだけ目を細めた。
それから、ゆっくりこちらへ歩いてきた。
私の机の前で止まった。
「帰らないんですか」
私が聞いた。
「帰ってほしいですか?」
「それ、前にも聞いたな」
「まだ答えてもらってません」
私は彼女を見上げた。
白いブラウスの一番上のボタンが開いていた。
昼間も同じだったはずなのに、二人だけになると違って見える。
視線を上げる。
彼女と目が合った。
見ていたことに気づかれた気がした。
それでも彼女は襟元を直さなかった。
「帰ってほしくない」
私は言った。
彼女の表情が変わった。
ほんの少しだけ。
「そういうこと、言うんですね」
「聞いたのは君だろ」
「そうですけど」
彼女が机に手をついた。
顔が近づいてくる。
私は動かなかった。
髪が私の頬を撫でた。
くすぐったい。
その奥から、いつもの香りがした。
シャンプーなのか。
香水なのか。
もう、どうでもよかった。
彼女の匂いとして覚え始めていた。
「三日目」
彼女が囁いた。
「うん」
「えらい」
唇が耳のすぐそばにある。
吐息が耳から首筋へ流れる。
身体が勝手に緊張した。
彼女は離れない。
私も離れなかった。
彼女の肩と私の肩が触れた。
ブラウス越しの体温が伝わる。
ほんのわずかな接触だった。
けれど昨日までとは違った。
私は顔を少し動かした。
彼女も動いた。
そのせいで、互いの顔がさらに近くなった。
唇まで、数センチ。
彼女の呼吸がわかる。
私が息をすると、彼女の香りが入ってくる。
彼女が息をすると、その温かさが私の口元に触れる。
誰も動かなかった。
視線だけが、一度、彼女の目から唇へ落ちた。
彼女も気づいた。
「どこ見てるんですか」
囁くような声だった。
「見ちゃ駄目?」
彼女は答えなかった。
代わりに、私のネクタイに指をかけた。
結び目をほんの少し直す。
指先がシャツの襟に触れる。
そして一瞬だけ、首筋に触れた。
冷たい指だった。
私は息を止めた。
「緊張してます?」
「してない」
「嘘」
昨日とは逆だった。
彼女が笑う。
顔が近いままなので、その笑いが唇の動きまで見える。
「毎日これをやるつもり?」
「何をですか」
「褒めるの」
「嫌ですか?」
「嫌だったら三日も酒をやめてない」
彼女が少し笑った。
「それ、断酒の理由として間違ってますよ」
「自分でもそう思う」
彼女の指がネクタイから離れた。
私はその手を目で追った。
触れたいと思った。
昨日なら、そこで終わっていた。
今夜は違った。
机の上に置かれた彼女の手のすぐ横に、自分の手を置いた。
小指と小指の間。
一センチもない。
彼女は手を引かなかった。
私はほんの少しだけ指を動かした。
小指の側面が触れた。
彼女も動かない。
たったそれだけだった。
手を握ったわけでもない。
抱き寄せたわけでもない。
それなのに、耳元で囁かれたときより緊張した。
しばらくして、彼女の小指が動いた。
私の指に、ほんの少し重なった。
偶然ではなかった。
私は彼女を見た。
彼女も私を見ていた。
「明日は?」
彼女が言った。
「飲まない」
「どうして?」
答えようとしたとき、彼女が手を離した。
身体も離れる。
香りが遠ざかる。
急に寒くなったように感じた。
彼女は鞄を持った。
「じゃあ、また明日」
「明日も褒めてくれる?」
彼女はエレベーターの前で振り返った。
「四日目まで我慢できたら」
「酒を?」
彼女は少しだけ笑った。
答えなかった。
扉が閉まる。
私は自分の小指を見た。
そこには何も残っていない。
それでも、彼女の指の温度だけは残っていた。
酒を我慢する夜は、三日目だった。
彼女を我慢する夜は、
たぶん、今夜からだった。
