翌朝、彼女は何も言わなかった。
「おはようございます」
いつもと同じ声だった。
「おはよう」
それだけ。
昨夜、二人きりのオフィスで交わした会話など、最初からなかったようだった。
私は少し拍子抜けした。
何を期待していたのだろう。
「明日も飲まなかったら褒めてあげます」
たったそれだけの言葉を、朝から何度も思い出していた。
五十五歳にもなって、馬鹿みたいだと思う。
午後六時を過ぎたころ、彼女が私の席までやってきた。
「これ、確認お願いします」
書類を机に置く。
白いブラウスの袖は、今日も肘までまくられていた。
私は書類を受け取った。
彼女の指が、私の指に触れた。
ほんの一瞬だった。
偶然だろう。
彼女は何も言わない。
私も何も言わなかった。
彼女が戻ろうとした。
「昨日」
足が止まった。
「飲まなかったよ」
振り返った彼女が、少し笑った。
「本当に?」
「本当に」
「へえ」
「それだけ?」
「何がですか」
「褒めてくれるんじゃなかった?」
彼女は私を見た。
それから、ゆっくり戻ってきた。
昨日と同じ場所。
ただし、昨日より近い。
彼女が机に手をついた。
身体を少し屈める。
束ねた髪が肩から滑り落ちた。
その髪が、私の頬に触れそうになる。
香りがした。
昨夜と同じだった。
今度は、香水でも柔軟剤でもないような気がした。
彼女の首筋が目の前にあった。
白いブラウスの襟と、その上に続く肌。
見てはいけないと思うほど、目が離れなくなる。
「じゃあ……」
彼女の唇が私の耳に近づいた。
吐息を感じた。
「えらい」
小さな声だった。
耳の奥ではなく、首筋のあたりで聞こえたような気がした。
私は動けなかった。
彼女もすぐには離れなかった。
数秒だったと思う。
けれど、その数秒だけ、空調の音が消えた。
彼女の体温まで感じるほど近い。
昨日は二十センチあった。
今は、ほとんどない。
「近すぎるだろ」
ようやく言った。
彼女は身体を起こした。
「そうですか?」
何事もなかったような顔をしている。
「そうだよ」
「聞こえないといけないので」
「普通に聞こえる」
「じゃあ、次は離れて言います」
次。
その言葉だけが残った。
「次もあるの?」
私が聞くと、彼女は少しだけ笑った。
「今日も飲まなかったら」
そう言って、自分の席へ戻っていった。
私は書類に目を落とした。
文字が頭に入ってこない。
耳には、まだ彼女の吐息の感触が残っていた。
香りも残っている。
五十五歳の男が、一日酒を飲まなかった。
ただそれだけのことである。
それなのに私は、今夜も飲まない理由を一つ、見つけてしまった。
そしてたぶん。
それは酒より危険な理由だった。
