午後九時を過ぎると、オフィスは別の場所になる。
昼間は電話と人の声で埋め尽くされているのに、今は空調の低い音だけが残っていた。
「まだ帰らないんですか」
顔を上げると、彼女が立っていた。
四十五歳。十歳年下。
白いブラウスの袖を肘までまくっている。昼間は下ろしていた髪も、今は後ろで無造作に束ねられていた。
「そっちこそ」
「私は、もう帰ります」
そう言いながら、彼女は帰らなかった。
私の机の横に立ち、どうでもいい話を始めた。
明日の仕事。
週末の予定。
最近見ているドラマ。
内容など、ほとんど頭に入ってこなかった。
近いのである。
昼間なら何とも思わない距離なのに、二人きりになると、その近さには意味が生まれる。
彼女が髪を耳にかけた。
その瞬間、微かな香りがした。
香水ではないような気がした。シャンプーかもしれないし、柔軟剤かもしれない。
あるいは、長い一日を終えようとしている彼女自身の匂いなのかもしれなかった。
もう一度嗅ぎたいと思った。
そう思った自分に気づいて、私はパソコンの画面に目を戻した。
「何ですか」
「何が」
「今、見てたでしょう」
「見てないよ」
「嘘」
彼女が笑う。
そして私の机に手を置いた。
指先が近い。
三十センチ。
いや、二十センチもない。
私はマウスから手を離した。
その手を少し横へ動かせば、彼女の指に触れる。
それだけのことだった。
けれど、その数センチを越えることと、越えないことの間には、ひどく大きな違いがある。
彼女も手を動かさなかった。
私も動かさなかった。
「帰らないんですか」
今度は私が聞いた。
「帰ってほしいですか」
一瞬、答えに困った。
彼女は私の顔を見ている。
笑っているようにも見えるし、試しているようにも見えた。
「困る質問をするなあ」
そう言うと、彼女は声を立てずに笑った。
そのとき、肩がわずかに私の腕に触れた。
偶然だったと思う。
たぶん。
彼女は離れなかった。
私も動かなかった。
布越しのほんの小さな接触なのに、そこだけ妙に熱を持っている気がした。
「じゃあ、お先に」
彼女は突然、身体を離した。
香りも一緒に遠ざかる。
数歩歩いたところで振り返った。
「今日は飲みに行かないんですか」
「やめたんだ」
「お酒?」
「たぶん」
「たぶん、なんですね」
「まだ二日目だからね」
彼女は少しだけ首を傾けた。
「じゃあ、明日も飲まなかったら褒めてあげます」
エレベーターの扉が閉まる直前まで、彼女はこちらを見ていた。
扉が閉じた。
私は一人になった。
さっき彼女の肩が触れた自分の腕を見た。
もちろん、何も残っていない。
それなのに、感触だけは残っていた。
酒をやめると、いろいろなものが鮮明になる。
匂いも。
女の声も。
ほんの数センチの距離も。
五十五歳になって、そんなことを知るとは思わなかった。
